寄り添いたいご家族の想い
初めまして。橋本桂子と申します。本日はよろしくお願いいたします。
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当時、長男3歳、次男1歳です。
この時、長男は言葉が2語文でしたので、「少し遅れがある程度かな」と思っていました。幼稚園に入学した時、周りの子供たちと明らかに違う行動をとっており、ひとり遊びが多く、先生に1日中おんぶしてもらって過ごしていました。通う幼稚園の先生から「発達の遅れがあるのでは?」と言われ、別府発達医療センターで見てもらったところ、“広汎性発達障害”と診断され、私は愕然としました。その時は既に、チック症状が出ていました。
親なら、子供達と、これからの人生を誰でも夢見るはず…野球やサッカー、キャンプや旅行、様々な楽しい家族の思い出作り…その夢を見ることが出来ないと知り、障害を持つ子供にどう向き合って行けば良いのか分かりませんでした。
通っていた幼稚園からは、「年中には上がれないだろう」と言われ、そのあと訓練所に通う事になるのですが、私にとって、その事実を受け止める事が出来ず、障害児でも受け入れてくれる保育園を必死に探しました。しかしながら、当時住んでいた地域では受け入れてもらえる保育園が無く途方に暮れていました。
私自信、結婚で県外から移り住んで来たので誰に相談して良いのか?何処に行けば良いのか?全く分からず一人で悩む日々でした。そのような時に、ある保育園が開催している「仲良し保育」に参加しました。そこで、私達親子を見ていた園長先生が声をかけてくださいました。私の現状を話したところ、園長先生は、その保育園に「子供たちを受け入れます」と言われ、私はすぐに、大分市に問い合わせをしました。しかし、居住が大分市内ではなかったため、入園するためには大分市に移り住む必要がありました。私たち家族は急遽大分市内の借家へ転居を決め、すぐに引っ越しをすることになりました。しかしながら、この急激な環境の変化こそが息子の心に大きな影響を与えてしまうことになったのです。
保育園には無事に入園することができましたが、ほっとしたのもつかの間、保育園の先生から「次男も遅れがあるのではないか?」と言われました。私自身薄々気付いていましたが、その現実をすぐに受け入れる事は出来ませんでした。私は1人山に行き車の中で大泣きをした事を今でも忘れません。「神様はこの世にはいない!何故、2人の子供達が障害を持って生まれなければならないのか?」と絶望しました。それから親子共々色々な療育訓練が始まりました。午前中は長男、午後は次男の訓練の日々が6年間続きました。